他の旅籠屋へつけようとする

 ――他の旅籠屋へつけようとする。と、どうだろう、碩寿翁自身が、駕籠の中から云うではないか。「これこれ駕籠屋どうしたものだ。先へ行く駕籠の入った旅籠へ、すぐこの駕籠をつけてくれ」 同じ旅籠屋へ泊まるのであった。 こうして道中をしているうちに、長崎へは行かずに飛騨の山中の、萩村の柏屋へ来たのであった。 さて今碩寿翁は行燈の側へ、膝を揃えて坐っている。「この立派過ぎる原形のままでは、人に売ろうにも買い手があるまい。惜しいけれども割ることにしよう」 憑かれているような碩寿翁であった。こう声に出して呟くと、またも懐中へ手を入れたが、掌《てのひら》の中へ隠れるほどにも、小さい長方形の揉み皮張りの、小箱を取り出して膝の上へ置いた。すぐささやか[#「ささやか」に傍点]な音のしたのは、その箱の蓋《ふた》があいたからであろう。何が箱の中に入っていたか? 日本の国内では見られないような、精巧を極めた洋鑢《ようやすり》だの、メスだの錐《きり》だのの道具類が、整然として入っていた。 碩寿翁であったがメスを取ると、右手でメスの柄を握って、注意しいしい下へ下ろした。 下りて行くメスの下にあるのは、真に美しい鯖色の光を、ギラギラと空へ投げている、そう云う品物を底に蔵した、例の小さい箱であった。 しかるにこの時隣りの部屋で、囁き合っている男と女があった。「今夜こそどうでも取らなければならない」 こう云ったのは男であった。 すると女が囁き返した。「そうとも、どうしても取らなければならない」「眠っているだろうか? 起きているだろうか?」「そっと襖をあけてごらんよ」

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